着物にかける情熱。「夢工芸 染の新井」の歩み

こんな着物屋じゃダメだ

本物の着物にこだわる「夢工芸 染めの新井」が誕生したきっかけは一枚の保証書でした。
王貞治選手が756号のホームラン世界記録を更新した昭和52年のこと、当時の価格で28万円の「金彩訪問着」をお買い上げいただいたお客様から「シワがある」とお叱りを頂戴しました。
このことを問屋に伝えると、一枚の保証書とともに返ってきた答えはこうです。

「これ(保証書)と三千円ぐらいの菓子折でも持っていけば、義理は果たせるだろう」

着物とは心のかたち

私たちはただの「被服」を販売しているとは考えていません。幼い頃に母親を病気で亡くした孫の、親代わりとなり育てあげた祖母が、成人式用に手描き友禅のお振袖をお求めになりました。ご納品のとき、しみじみと友禅のひと筆ひとふでを確認し「こんな綺麗な着物をありがとう」と涙を流されました。孫への愛情からこぼれた感謝の言葉は「着物屋冥利」につきます。
お客様は着物にそれぞれの「こころ」を見つけ、お求めいただいているのです。

責任をもって着物を届けたい

保証書で済ませようとした問屋にとって着物はただの商品だったのでしょう。しかし、それではお客様に責任を持って「きもの」をお届けできない・・・という決心が「夢工芸 染めの新井」の原点です。
当社は新井重男が昭和45年(1970年)、呉服問屋の修行を終え東京都足立区は竹の塚の小さなアパートで商売を始めたのが始まりです。歴史や老舗といった「看板」がものいう業界で、苦労をしていないと言えば嘘になりますが、修業時代からの信条である「嘘をつかない」「誠実であること」がお客様に喜ばれ、徐々に商売は軌道に乗っていきました。

暗中模索の砂金拾い

そんなときにおこったのが「保証書事件」です。仕入れて売る商売のやり方では、商品に責任を持つことができません。修業時代を通じての信条が、独立後の商売を経て確信に変わっていました。
「売る商品に責任をもてないような商売は長続きしない」
染め、織り、刺繍など着物の技法をいちから勉強し直します。着物を売ることと、作ることはまったく別の知識と経験が求められ、徒手空拳での挑戦は暗闇を目隠ししながら歩くようなものでした。

着物が導く出会い

あるいは、河床を漁る砂金探しのようなものだったかも知れません。徒労のなかにもキラリと光る金の粒が見つかることもあるからです。そのひとつが友禅作家 小守脩先生との出会いです。
多くの言葉はなくとも通じ合い、以来、本物の着物を目指しての二人三脚が続いています。

時代に浮かれなかった幸運

着物のプロデュースが軌道に乗り始めたころ、日本はバブル経済へと駆け上がっていきました。当時は金糸銀糸を華美にあしらった着物から、DCブランドの影響を色濃く受けた「作家もの」の全盛期でしたが、当社は時代に迎合しませんでした。特に小守脩先生という名前で売ることもせずに、本物の着物とはなにか、最上の友禅とはなにかを追求しているうちに、振り向くとバブルがうたかたの夢とばかりにはじけて消えました。

バブルにみた夢

悪名高き「地上げ屋」が跋扈していたバブル期、都心部の土地は狂乱状態となっていました。それも仕方がありません。1億円で買った土地が、翌日には2億円で売れたという話しがごろごろ転がっていたのですから。そのころ当社も土地を買いました。茨城県の八郷盆地を眺める吾国山に山荘を建てたのです。

「お客さんにゆっくりと遊んでもらいたい」

都会の喧噪を離れ、自然に囲まれたなかで、ゆったりと流れる時間を過ごせる「ゲストハウス」です。この「恋瀬山荘」では、いまも年に数回、お客様をご招待して、ふれあいの旅をおこなっております。

着物にかける情熱

当店に遊びにこられ「勉強になりました」とお礼を述べる方もいれば、代表の新井重男も知らない昭和初期の着物風俗を教えてくれる旦那さまもいらっしゃいます。また、厳しい批評家としてご指導いただくことも少なくありません。当店のお客様はみな「着物好き」で、手描き友禅による「一点もの」の価値もご理解いただいております。
いわゆる「ビジネス」としてみれば「一点もの」は割の良いものではありません。しかし、あの「保証書」の悔しさを思えば、本物の着物をお届けできる幸せに勝るものはありません。なにより、着物好きのお客様と分かち合う笑顔が、「夢工芸 染めの新井」のなによりの財産なのです。